2011年9月1日木曜日

松原泰道『法句経入門』2章 集諦 (中)

松原泰道『釈尊のことば 法句経入門』
(祥伝社新書、平成22年3月。初出は昭和49年)


第2章 集諦(じったい)―無常と執着を乗り超える


(承前)



愚人は
 いたずらに利益と名誉を追う
 家(うち)にあっては
 みずから 嫉みを起こし
 外にあっては
 奉仕を求めて やまず』(七三)102


お金がすべて、序列がすべて
 という生き方では、組織のなかで、
 嫉妬の鬼となって、自滅への道を歩みがちです。


 組織の外に出ても、
 自分がエライかのように思い上がって、
 みずから争いの種を作りがちです。


 大切なのは、
 私もただの愚人であることを、
 深く知ることだと思います。


人間の悪しき心を描いたのが、地獄の思想。
 源信の労作『往生要集』に詳しく描かれています。
 (以上、松原氏の本文を要約)




『いま歩いている道が、
 そのまま地獄に通じる道であり、
 あるいはそのまま地獄に変わる、
 そういった現象がうかがわれる』
 (石田瑞麿『悲しき者の救い』)105


「私は、人間は誰しも地獄の中に生きるとともに、
 誰もが地獄を自分の身に持っていると思います。」105


「地獄界は『憎しみや他を審(さば)く
 身・口・意の三業(略して業)の営みの成果』で、 
 憎しみをもととして他を審(さば)く生き方をするかぎり、
 私たちは地獄以外に行く先はないのです。」106


「地獄を、
 未来にだけ考える必要はないのです。
 むしろ現在の自分の生きざまに、
 自分の誕生前歴を読みとるべきです。
 地獄で象徴される人間の底にひそむ、
 どす黒い強烈な生命欲(無明という)が、
 現実の人間を苦しめるのです。
 地獄は結果であるとともに、
 原因となるものです。」108


地獄について学ぶことは、
 自分の心にひそんでいる悪の数々を学ぶことに等しい。
 この示唆はたいへん勉強になりました。
 『往生要集』は前から気になる書物なので、
 今後、手元に置いて、味読したいと思っています。





悪を
 ふたたびなすなかれ
 悪の中に
 楽しみを持つなかれ
 悪の蓄積は
 堪(た)えがたき苦痛と
 なればなり』(一一七)109


小悪を
 軽んずるなかれ
 水の滴(したた)り微(び)なりとも
 ついによく
 水瓶(かめ)をみたすべし』(一二一)109


悪を遠ざける、知恵をもつ。
 まず小悪を軽んじないこと。


「私たちは、
 盗みとか殺しとかいう身体でする悪業(あくごう)には、
 深い悔いを持ちますが、
 口でする悪には、
 それほど痛みを感じません。
 実はそれだけに過ちを重ねやすいのです。」110




『わたしは若いころからこわいものばかりでした。
 地震・雷・火事・親爺といいますが、
 まだまだほかにも恐ろしいものがたくさんあります。
 しかし、このこわいものや恐ろしいものがあるから、
 今日まで正しく生きてこれたのです。
 こわいものがあるのは、しあわせです。
 今のお方には、こわいものが何もないのがお気の毒です。』
 (小泉信三先生の、ご友人の言葉)111


こわいものがあると、
 悪から遠ざかりやすくなる。
 なるほどなあ、と思います。
 若いころのわたしには、
 あまり怖いものがなかったように思います。
 でも意図して、こわいもの、
 畏怖すべきものをもつように心がけてからのほうが、
 心穏やかな生活を送れるようになって来たように思います。


「地獄の図絵は、
 私たちの心に秘められている未発の多くの悪を、
 あらゆる角度から展示しているのです。
 今はそうではないが、
 いつかはこれらの悪が爆発するに違いないと、
 自分自らに予言して、
 事実とならぬようにつつしむのです。」113


『道を求むるものには“後で”ということはない。
 気のついたらそのときに清めることだ。』
 (京都の東福寺に住した高層・鼎州〔ていじゅう〕)113





心 恣(ほしい)ままなる人には
 愛欲の枝葉(えだは)は
 日増しに茂らん
 林中(りんちゅう)に果実(このみ)をむさぼる
 猿(ましら)のごとく
 情念は
 猛(たけ)りおどらん』(三三四)114


※源信の設定する第三の地獄「衆合地獄」が頭に浮かぶ(松原)。


愛欲がときに罪に結びつくことは、よくわかります。
 愛欲がなければ、生命をつむいでいくこともないわけですが、
 ときに、苦しみに結びつくこともまた事実です。


「ただ機会がないだけで、
 いつ暴発するか予測できない愛欲の不発弾を持つのが、
 人間であることを学ぶべきです。
 これらの地獄で示される人間感情が、
 苦の原因です。」117





手に傷なくば
 毒を持つべし
 傷なきものを
 毒は害(そこな)わず
 悪心なきものを
 邪悪は 犯(おか)し得ざるなり』(一二四)118


「手に傷がなければ、
 手は冒されません。」118


しかし、手に傷があるのは、
 現実の世界に生きている限り、
 避けることができません。


「私たちの周囲は病毒と害悪でいっぱいです。
 つねに毒にさわり、
 悪に触れなければ生きられません。
 それに私たち自体が、
 心身ともに傷だらけです。」119


「毒に侵されぬ無傷の手を持つものはない」120


人は皆、
 生きているかぎり、
 手に傷を作り、
 その傷から毒がまわって、
 苦しむことは避けられない、


 じゃあ、どうするべきか。
 解決は容易でありません。
 でも、容易でないことを知ることが、
 まずは大切です。

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