2011年9月1日木曜日

松原泰道『法句経入門』2章 集諦 (上)

松原泰道『釈尊のことば 法句経入門』
(祥伝社新書、平成22年3月。初出は昭和49年)

第2章 集諦(じったい)―無常と執着を乗り超える

前章において、
 『人生の様相は苦が実情である』と、
 その実態を知りました。
 その苦も感覚に止まらず、
 苦が人生の事実であることが明らかになりました。
 すなわち『苦諦(くたい)』を学びました。
」89

ここでは『人生の苦の原因』を学ぶことになります。
 苦が起きる原因の真理を『集諦(じったい)』といいます。
 『集』は『ものが集まり起こるための原因』です。

 この原因は、
 大きく渇愛(かつあい)と無常に分けられる
」89

 ※苦は現にそこにあるもの。
  避けがたく、また受け入れる他ないものです。
  なぜ人が苦しむのか、
  考えたから、苦しみがなくなるわけではありません。
  しかし、その原因がわかることによって、
  苦しみが少し軽くなるのも事実です。

  渇愛と無常、の二つの心のもちようが、
  苦をもたらす大きな要因になっていることについて、
  考えを深める一章です。


強欲(ごうよく)にたとうべき烈しき
 火はなく
 怒りにくらぶべき強き
 握力(あくりょく)はなく
 愚痴(ぐち)になぞらうべき細かき
 網(あみ)はなく
 愛欲にまさる疾(はや)き
 流れはなし
』(二五一)88

渇愛というのは、
 私たちがいたるところで、
 悦楽を欲求してやまぬ心の渇(かわ)きの現象です。
 その渇きの現われの一つが強欲(貪り むさぼり)で
」す。

心が渇いているから、
 火は燃えさかるばかりです。
 あらゆるものを焼きつくします。
」89

渇愛は、満たされないと憎しみに反転します。
 憎しみはさらに怒りとなって爆発します。
」89

渇愛は、また愚痴(妄想 もうそう)に変身します。
 『妄想』とは、真実でないものを真実と誤認すること。
 すべてを誤解で包んでしまう。
」89

 ※渇愛とは「心の渇き」です。
  心の渇きが、
   強欲、憎しみ、怒り、愚痴、妄想、愛欲
  に転じるとき、大きな苦の要因となるわけです。
  しかし心が渇くのは、
  我々がふつうに生きているあかしでもありますので、
  解決は容易でないことがわかると思います。


平生は、みんなが善人なんです。
 少なくとも、みな普通の人間です。
 それが、いざというまぎわに変わるんだから、
 恐ろしいんです―
』(夏目漱石『こころ』)91

“善人”のどこかに、
 どす黒い渇愛がひそんでいるのです。
 それが、ときとして火を呼び水を招き、
 死を求めて止まないのです。
 自分をも他人をも、
 苦しめずにはおかないのです。
」91

 ※誰でもの心に、
  渇愛がひそんでいる。
  これはよくわかることではないでしょうか。



よき師に
 終身(しゅうしん)学びて
 学ばざるあり
 匙(さじ)の汁(しる)に浸(ひた)って
 風味(あじ)を知らざるに似たり
』(六四)92

われ以外は、みなわが師なり』(吉川英治氏)94

人間は傲慢になると、
 自分の周囲の師が見えないのです。
 会っていながら会っていない
」94

人間をよく凡夫といいます。
 『凡夫』は無知の人ではありません。
 何もかもよく承知しながら、
 なお愛着に迷うのが、凡夫であり人間です。
 そこに、知識とは別に、
 知恵を覚ましてくれる師や教えが求められるのです。
」95

 ※良き師に出会うこと。
  いわゆる学校の先生だけを思い描いていると、
  それはごくまれにしかないことのように思われます。

  しかしもう少し視野を広げて、
  人間とは限らない、動物、植物、大自然をも
  わが師である、と考えると、

  様々な自分の苦しみを解き放ってくれる
  わが師はどこにでもいることがわかります。

  またそうした師を多くもつことは、
  とかく傲慢に陥りがちな自分の心を修正していく上で、
  とても大切なことのように思われます。


人間をじんかんと読むとき
六道(りくどう)の中の
 地獄・餓鬼・畜生・修羅と天の『間』に『人』が置かれています。
」95

私は、一日のうちに幾度も
 怒ったり憎んだり短気を起こす『地獄』の世界から、
 あつかましい欲望に狂う『餓鬼』、
 本能を逞しくする『畜生』の世界の間をさ迷います。
 さらに他と争う『修羅』、
 はては根無草のような淡い快楽や幸福に有頂天になる
 『天』の世界の間をうろつきまわります。
」95

『人』は『間』を苦しむとともに、
 『間』を考える存在でもあります。
」96

 ※人の心は弱いもの。
  地獄から飢餓、畜生から修羅、天へと
  目まぐるしくうつろいゆくもの。
  独善的な状況に陥らないためにも、
  わが師をもつことが必要だ。


“袖触れ(振りとも)合うも多生(他生とも)の縁”
多生の縁とは、
 私たちがこの世に生まれるずっと前から幾度も生まれ変わる、
 その間に結ばれた数多くの因縁で『宿縁』ともいいます。
」96

現代人は、隣人はもとより、
 血縁者にもことさら無関係をよそおいます。
 宿縁どころか、
 明瞭な現在の縁をも無視し、断ち切ろうと、
 無作法の態度に出ます。
 他者に関心を持つときは、敵対関係におきます。
 そして、最後には孤独の苦をかこつのです。
」97

人が『人間』であるためには、
 この『間』を豊かに結びあうことにある、とわかると、
 『人間』の言葉にずしりとした重さを感じます。
」97

 ※宿縁で結びつく人、動物、植物、自然に対して、
  その縁を大切なものとして、すくいとれるかどうか。
  たくさんのわが師に導かれることで、
  苦しみを減らしていく人生でありたい。



骨もて
 この城はつくられ
 血と肉もて 固められたり
 中には
 老いと死と
 いかりと傲慢(おごり)とが
 蔵(かく)されたり
』(一五〇)98

釈尊は、人体は
 『地・水・火・風・空の五大より成る五大成身』と考えます。
 『大』とは要素の意味です。
 地大は、髪・毛・爪・歯・骨。
 水大は、唾液・血液などです。
 火大は体温。
 風大は手足の動き。
 空大は、空間です。
」99

地・水・火・風・空の五大の特質はそれぞれ
 堅・湿・煖(熱)・動・無礙(障害のないこと)とされます。
」99

私たちの五体は、
 五大五輪が因縁法により出会って構成されているだけであるから、
 因縁が解けると、五大五輪も分散します。
 心もまた変わりつづけます。
 心身ともに無常です。
 この無常を苦とする感情、
 無常感が原因となって、
 人生を思い悩むのです。
」100

風化を悲しむ私たちもまた、
 無常の存在にほかなりません。
 この無常感が人生に苦を呼ぶ原因の一つに教えられるのです。
 さらに、このはかない自分の存在を忘れて、
 『いかりと傲慢』に身を焼き、
 さらに苦を深める
」101

 ※無常感は、家族から離れて、
  ひとりになるとわかります。
  これはつらい。

  家族との密接な関係はそれ自体、
  苦につらなる側面がありますが、
  いったん家族からまったく離れた生活を送ってみると、
  その孤独に、
  人はなかなか耐えられるものではありません。

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