2011年5月1日日曜日

松原泰道『法句経入門』1章 苦諦(前半)



松原泰道(まつばらたいどう)著
『釈尊のことば 法句経入門』

(祥伝社新書、2010年3月。初出は1974年)より。
※印は栗木による。

※なぜ仏教かといえば、
 私にとって一番近くにある宗教が、仏教(浄土宗)であるにもかかわらず、
 仏教と向き合う機会がほとんどないまま今に至っているので、
 その中身をよく知りたい、と思ったのがきっかけです。

 日本人にとっての仏教、
 私にとっての仏教とは何なのか、を考える場合、
 松原泰道氏の一連の著作は外せないように思われました。

 松原氏は臨済宗の方なので、
 その点は考慮しつつ、
 現代の日本人にとって分かりやすい言葉で、
 仏教をどう理解したのか、真剣に受け止めてみたいと思っています。


「『法句経』とは、
 パーリ語のダンマパダ(Dhammapada)を漢訳した経典の名で、
 “真理のことば(法句)”の意味です。

 パーリ語は、
 釈尊が平素用いた古代インドの俗語の一つで、
 釈尊の晩年には聖典要語となりました。
 (中略)

 釈尊が、
 このパーリ語で語った四二三編の詩句を、
 ダルマトゥラタ(二世紀におけるインドの仏教学者)が選集したのが、
 いま読まれている法句経とされています。」3


一章 苦諦(くたい)-人生を苦しくする八つの原因

『すべては無常なり』と
 知恵にて観(み)る人は
 よく苦をさとるべし
 これ 安らぎにいたる道なり
〔二七七〕」20

『すべてのものは苦なり』と
 よく知恵にて観(み)る人は
 この苦をさとるべし
 これ 安らぎにいたる道なり
〔二七八〕」20

※苦しさ、というものから、
 人はのがれることができません。

 その現実を、ありのままに受け入れ、
 どんなときに苦しさを感じるのか、

 苦しさのもとになるものを、
 少し突きはなしたところから、
 考えなおしてみることが、

 苦しさが少なく、安らぎの多い
 豊かな心を手に入れる方法だということなのでしょうか。

 四十が近づいて来て、何となくわかるようになって来ました。


〈八苦①〉生まれ、生きることの苦しみ-生苦(しょうく)
人に生まるるは難(かた)し
 いま 生命(いのち)あるは難し
 世に ほとけあるは難し
 ほとけの法(おしえ)を聞くは難し
〔二八二〕」26

※生まれることが、
 苦しみにつながることもあります。
 願望からいえば、
 生まれることは大きな喜びに包まれていてほしいのですが、
 現実を直視すれば、生まれることが、
 時に大きな苦しみに結びつくこともあります。
 でもしかし、だからどうするのか。
 救いがあれば幸いですが、
 救いがないこともあります。

※ヘレン・ケラー女史の
 「子は生まれてくるとき、親を選べない」
 という言葉を受けて、
 「親も子を選ぶ自由がない」
 と述べられているところは考えさせられました(32頁)。


〈八苦②〉老いることの苦悩-老苦(ろうく)
たとい 百歳の寿(いのち)を得るも
 無上の法(おしえ)に 会うことなくば
 この法(おしえ)に会いし人の
 一日の生(しょう)にも 及ばず
〔一一五〕」34

※年をとる苦悩。
 ありがたいことに、
 まだそれほど切実ではありません。
 しかし、どんなものかは、
 何となくわかるようになって来ました。

 頭をつかうことが好きで、
 頭をつかう仕事をしているからでしょうか、
 肉体の衰えは徐々に感じはじめていますが、
 頭はまだまだ大丈夫です。

 頭をつかう部分で、
 明らかな衰えが自覚できるようになって来ると、
 それはかなりの苦痛になるでしょう。


〈八苦③〉病(やまい)にふせることの苦しみ-病苦
この世はつねに
 燃えさかるを
 何の笑い 何のよろこびぞ
 おん身は
 いま幽冥(やみ)につつまれたるに
 何ぞ光を求めざる
〔一四六〕」39

「病気の持つ三功徳
 一、生命力の自覚、
   病気の抵抗力としての健康性や、
   精神の抵抗力が自覚できる。
 二、自然と人生に対する繊細な感情が磨かれる。
   心を柔軟にする訓練の絶好機で、
   もののあわれを知ることができる。
 三、何ものかに祈ろう、
 と思い立つ心が生じる。」40
 (評論家の故亀井勝一郎氏)

※病院にかかりきりで、
 まともに勉強できなかったり、
 仕事できなかったりしたことはないので、
 その点はありがたいのですが、

 あちこちところどころガタが来て、
 少しずつメンテナンスをする必要はでてきました。

 ただ全体としてみれば、
 病の苦しみについて迫真をもって語るには、
 まだまだ元気だと思います。

 元気に産んでくれた
 両親に感謝します。


〈八苦④〉死の恐怖と苦しみ-死苦(しく)
子たりとも
 父たりとも
 縁者たりとも
 死に迫られしわれを
 すくうこと
 能(あた)わず
〔二八八〕」44

『生(しょう)を明(あき)らめ、
 死を明らむるは、
 仏家一大事の因縁なり』44
 (道元禅師)

※この平和に時代に生を得て、
 死への恐怖も、
 それほど切実なものではありません。
 御先祖様に感謝です。

 恐らくもう少し年をとって、
 死の足音が近づいてくると、
 切実になって来るのだと思います。

 年老いて死ぬ以外では、
 あまり死への恐怖を感じなくて住むのは、
 たいへんありがたいことです。
 感謝、感謝。

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